ホーム > 徘徊 > 城跡 > 臼杵城 (大分県)

臼杵城

所在地 大分県臼杵市 地図 トップに戻る
由来 永禄5年(1562)、大友宗麟により築城されたとされる。その後福原氏、太田氏を経て、慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の後は稲葉氏(5万石)の居城となり明治まで続いた。
城は稲葉氏により改築されたとされるが、明治初年に城郭のほとんどを破却された。現存は、わずかに東南隅の卯寅口門脇櫓と西南隅の畳櫓のみである。
臼杵城は、築城当時は臼杵湾内に浮かぶ丹生島と呼ばれる島にあったが、現在は臼杵市の市街地中心部に取込まれ、小高い岡に築かれた平山城の景観を与えている。周囲の景観は大きく変貌しているのであろうが、二の丸周辺の石垣、本丸と二の丸を隔てる空掘りなどは当時の形状を止めているものと思われる。
訪問来歴 04/03/15

延岡からの帰路に臼杵に立ち寄り一泊、臼杵石仏、臼杵城跡などを見学した。臼杵城跡は現在は臼杵公園となっており、西側が護国神社、中央部がグラウンド、東側が庭園と卯寅稲荷神社の用地として利用されている。
ごく最近、大門櫓が復元され周囲では整備工事が行われている様子なので、あるいは城の大々的な復元工事が計画されているのではないかと想像した。

>>臼杵城の建物配置図 (城跡の案内板から)

城跡公園遠望 (04/03/15)
奥の木立が臼杵城のあった公園。左が西にあたる。以下西から見ていく。
畳櫓 (04/03/15)
現存。城跡の西南隅にあたる。右側の鳥居は護国神社の鳥居。右下からの階段は神社の参道になっているが、当時は大手門から通じる通路になっていたものと思われる。
大門櫓 (04/03/15)
復元。ま新しいいので最近復元されたものであろうが、説明板にはいつ復元されたのかの記載がない。右手前に畳櫓がある。ここを入ると二の丸である。
北側の石垣 (04/03/15)
周囲には石垣が残されている。これは北側西寄りの石垣。前周を見ていないので、どの程度保存されているかは不明。
空掘 (04/03/15)
西側(右)の二の丸と東側(東)の本丸の間を隔てている。築城当時はこの間は橋でつながっていたものと思われるが、現在は完全に埋められて通路になっている。この右側はグラウンドになっているが、建物配置図によると二の丸屋敷跡である。
天守閣跡 (04/03/15)
本丸の西隅。現在は西南の役で薩摩軍と戦い戦死したという勤王臼杵隊の碑が建っている。
卯寅口門脇櫓 (04/03/15)
現存。城跡の東南隅にあたる。周囲は切立つ崖である。一部に護岸工事の跡が見られる。築城当時は完全に海に面していた筈で、この城の難攻不落ぶりが伺える。
武家屋敷
武家屋敷 (04/03/15)
城の西側、市街地の中に武家屋敷が保存されている。この場所にあるのは旧藩主である稲葉家の下屋敷と上級武士の住宅跡。
ここが入り口になっていて、手前が稲葉家下屋敷、奥が上級武士である旧平井家住宅。奥でつながっていてこの入り口からどちらも見られるようになっている。
屋敷内、庭の全てが開放されているので、当時の武家の住宅の様子がよくわかる。
稲葉家下屋敷 (04/03/15)
稲葉家下屋敷とは、明治二なって建てられた旧藩主の帰郷時の住宅のことらしい。
>>稲葉家下屋敷の説明
旧平井家住宅 (04/03/15)
上級武士の住宅だという。座敷から台所まできれいに保存されている。座敷に駕篭が置いてあったとは思えないから、これはどこからか持って来たものであろう。
>>旧平井家住宅の説明